そうとうしゅう こ ほうざん 曹洞宗 巨法山 善長禅寺 ご案内 善長寺の沿革・由緒 本山:大本山永平寺 大本山總持寺 大永3年(1523年)5月、館林城主赤井丹馬守家範の開墓によって創建され、開山は大雲惟俊大和尚である。元和9年(1623年)8月、第三代館林城主松平忠次(徳川四天王の一人榊原康政の孫、後の姫路城主)の生母が病卒し、当寺に埋葬された。戒名「祥室院殿瑞峰窓嘉大禅定尼」。忠次は中興開基として荘田50石を寄進した。その後、将軍家光より大曲村(現在板倉町大曲)の采邑地を50石の朱印に換えて与えられた。また、元禄8年(1695年)2月、大本山永平寺より常恒会地の免牘を与えられている。境内に建つ観音堂の十一面観音は、安産子育の守護仏として信仰を集め、妊婦に紅白の腹帯を貸与している。また本尊の聖観世音菩薩は秘仏として知られ、丙牛の災禍を払うため60年ごとにご開帳されている。本堂の南に、県立つつじが丘公園の起源、榊原康政の側室お辻・侍女松の供養塔があり、春のつつじの季節には参拝者が絶えない。 つつじが丘公園の伝説徳川幕府時代の初代館林城主、榊原康政の側室「お辻」は美しく、康政候の寵愛を一新に集めておりました。ある春の日、尾辻は城沼に小舟を浮かべて、御供の侍女たちと水遊びを楽しんでおりました。ところが、小舟が沼の中程まで進んだ時、突然天候が急変し、荒れ狂う波間に小舟は進むことも退くこともできなくなってしまいました。この怪異は、自ら沼の主に見込まれたために違いないと、「お辻」は覚悟を決めて、同舟者の犠牲となって、身を湖底に投じました。侍女「松」も、後を追って入水しました。慶長10年(1605年)のことと伝えられております。康政候はこれを悲しみ、その霊を弔うために、「お辻」が生前愛したツツジを城沼の南岸に植え、その後歴代の城主によって次第に増殖され、現在の名園になったと語り継がれております。 ①本堂②鐘楼③水仙の小径④山門⑤観音堂⑥お辻・松女供養塔⑦合葬墓⑧一代(夫婦)墓⑨樹木葬(2025年秋完成予定)⑩祥室院殿の墓⑪寿老尊⑫水子地蔵⑬田山花袋の師、吉田陋軒の墓⑭千葉周作の師、杉江鉄助の墓⑮山王山古墳⑯丗一世巨峰句碑⑰お手洗い⑱駐車場⑲松尾芭蕉の句碑⑳忠霊塔 ギャラリー 曹洞宗とは 道元禅師さまが鎌倉時代に中国宋の国、天童景徳寺にて如浄禅師より「正伝の仏法」を継ぎ、日本に帰国した後に大本山永平寺を開かれました。その後大本山總持寺を開かれた螢山禅師が全国に広められました。このお二方と御釈迦様と合わせて「一仏両祖」としてお慕いしております。また永平寺と總持寺は両大本山とお呼びし、共に曹洞宗の大本山となり修行の中心となります。その教義は「只管打座」であり、坐禅をする事は勿論ですが、生活のすべてが禅であるとして只ひたすら眼の前の事に取り組むものです。 坐禅会 毎月第4土曜日の7:30から8:30に執り行っております。 写経会 毎月第2土曜日の15:00から16:00に執り行っております。 参加自由なので、お気軽にご参加して下さい。(初めての方は、お電話にてご予約お願い致します。)お電話番号 0276−72−0099 善長寺山門 年間行事 4月中旬 花まつり(花山開園日) 8月10日 施食会法要 12月31日 除夜の鐘 毎日 十一面観音安産腹帯貸与 毎週木曜日 梅花流御詠歌 奉詠稽古日 当サイト以外のサイトと善長寺は一切関係ありません 善長寺の供養 館林市の美しい城沼湖畔に位置する当寺の墓地は、静寂な環境の中で、大切な方を偲ぶのにふさわしい場所です。 墓地 善長寺境内墓地の区画となります。 一代墓 境内墓地内に新たに専用区画を設け、お墓の権利所有者(夫婦、親近者も含まれます。)がお墓に入ったあとに一定の回忌法要・供養を善長寺が受け持ちます。 永代供養塔 近年の社会環境により、墓地使用の継承者のいない方のために、善長寺で供養と管理をお約束する墓地です。(福祉対応も致します。) 2025年秋完成予定 樹木葬(個人墓) お知らせ 善長寺だより最新号を発行しました。 準備中 準備中 準備中 準備中 Video (準備中) 花と史跡を巡る な どころ ななしょ 館林名所七所 世界一のつつじ咲く町、徳川綱吉公二十五万石の城下町、館林の名所七所の神仏たちを花と史跡を訪ねて、お参りしませんか。 当寺は、つつじが丘公園の城沼対岸に位置しており、3月下旬から4月中旬に咲き乱れる水仙と七福神の寿老尊祀っています。また、境内から眺める公園のつつじは絶景です。また、庫裡にて十一面観音堂の安産子育の腹帯をお貸し致しております。 詳しくはこちらから ご案内